大和街道  5日目

                         2008年3月12日
      三茶屋~高見山登山口

近鉄吉野口駅からバスがないので、またまた歩いて三茶屋迄行きました。大変な時間ロス
三茶屋で道は分岐しますが左は新道です、小名峠越えの旧道は神社の鳥居前を右の山道に入ります。久須斯神社(三社大明神)

昼なお薄暗い峠越えですが、道ははっきり残っています

この道を迂回する新道とトンネルができているので利用する人はいないでしょう。でも旧道らしい快適な山道です

山越えは500m程で距離は短く蛇行した道です、山道下に新しくつくられた小名トンネルが通っています、トンネルを歩けばすぐの道です。トンネルの東側出口の近くに降ります。

(※)トンネルのすぐ先で、写真のような旧道らしい道が右にあったので、舗装道を進まずこの道を疑わず15分程入ってしまいました、だんだん怪しい道になり引き返した大チョンボがありました。(30分余りロスしました)どうも後で調べると小名川沿いの谷道を南に早く気が付いてよかった。

間違った道から戻り、暫くは舗装の新道を進みます右に小名川が沿い、前方に小名の集落が見えます

本少し左に回り込んでいる旧道跡小名口地区

盆地状の小名集落に入ります、戸数はあまり多くない山里の静かな村です

小名バス停があり、そこの前を右に入ると白山寺があります

小名のバス停の先で、舗装道(桜井吉野線)を左に進んでいく道と、右に入る狭い道に分かれます。かつては日の森峠小名峠を抜けて鷲家に入る道がありました。日の森峠道は峠近くまで舗装道で車でも行けるが、途中で右への日の森峠道に入りますが、今は峠から先藪で旧道は無くなっているという。比較的勾配も少なく鷲家まで行くことができた。小名峠越えは道幅も狭く勾配もきついが、ほぼ真っ直ぐの最短距離で鷲家まで通じている。おそらく紀州藩の参勤交代の街道で、日の森峠道はそれを旅人や村人が避けたりする脇道であったのでないかと思う。いずれの道も伊勢南街道に属するようです。
また、前述の道を北回りとすると、南回りルートとして、吉野の妹山林叢の分岐点で右の169号線・東熊野街道を宮滝まで重複して吉野川沿いに進む道で、宮滝のすぐ先、現在吉野消防署の分岐で右への熊野街道と分かれ、左の国栖にでて吉野川が高見川に変わりさらにその上流で鷲家川となり、東吉野村役場の傍を通る。小名峠を越えてきた北回りルート道と鷲家で合流する。この南回りの吉野川沿いの道は今では車で舗装された良い道ですが、往時は吉野川の水流も激しく、吉野川と山の斜面の道が非常に危険で遠回りであったのであまり街道として利用されなかったことだろう。幕末に入り天誅義士の無残な終焉地の地である、鷲家口から鷲家にかけての史跡が多く一度はゆっくり巡るのもいい。

小名集落の東側から右に入り少し先で民家の傍を峠への山道に入ります

小名峠道は地元の人たちも最近まで小名と鷲家への生活道として利用されていたことだけあって、道はよく踏みならされていて歩きやすい。ここから小名峠までは1.5㎞ほどの道のり

峠へ上るにつれて昼なお薄暗いが杉林がよく手入れされている。

峠への途中に石組されたところが何ヵ所もあり畑や民家の軌跡があります南回り道が改善されてからも小名や鷲家の人々はこの道を生活道路として利用してきた。紀州藩主の参勤交代の街道として、紀州藩主六代までこの道を利用した。

小名峠  小名集落から小名峠までは1.5㎞ほどで着く峠は(標高487m)。特に標識もありません。

小名峠より下りに入ります野町小名と東吉野村小川との境界です

三差路に峠氏の茶屋があった。

小名峠から400mほど下ると三差路に出る、かつてここに峠氏の茶屋があった。茶屋は明治に入り閉店し周辺で稲作のかたわら杉・桧の苗木を育てていたという。昭和に入り三差路を右に下っていった小川集落の谷口近くの一の谷に居宅を移したそうです。現在その茶店跡周辺の田畑は杉・桧の樹林と変わっている。三差路を右に800m程谷川沿いに下ると、一の谷橋の県道に出ることができる。
この鷲家谷の、一の谷頂上手前の薪小屋で潜伏していたところ鷲家の庄屋辻の手により、天誅義士島村省吾(土州産19歳)が文久3年旧9月28日正午ごろ捕縛六角獄舎で斬首されている。
また三差路を下った一の谷橋で県道に出た近くで、天誅義士山崎吉之助(尾州産)が同年9月26日午後6時~7時頃彦根勢により捕縛されている。
また天誅義士鍋島米之助(土州産24歳)も同年9月25日午前7時~8時、一の谷橋の近くの納屋に潜んでいたところを見つかり藤堂勢に銃弾され無念の最期を遂げている。
この三差路で、土佐の森下儀之助・森下幾馬兄弟が、幾馬が鷲家の方へ、儀之助が小名峠を越え三茶屋へ後に捕縛され六角獄舎で斬首されている。幾馬は三差路を下った先で藤堂勢の銃弾で非業の死を遂げる(土州産30歳)同年9月26日午前7時~8時。

三差路より鷲家に下った途中で、土佐藩士の森下幾馬が藤堂勢に銃撃され戦死した辺り

街道を下ると北側(左手)が開け鷲家赤谷の源流が見える。

鷲家の集落と正面に高見山

急坂を下る途中左に天誅組遺跡の解説表示板文久三年旧九月二十六日天誅義士森下幾馬はこの伊勢南街道を千米程上方で藤堂勢西荘源左衛門の手により戦死した。

この地区周辺は天誅組最後の地でこのような遺跡が各所にあり、また地元の人たちが如何に天誅組の義士たちを大切に扱い今も墓には花を供え清掃しているとは知らなかった。史跡の案内板が各場所にて説明されている。私も天誅組について深く知らなかったが、最近(平成26年に入り)特に興味を持つようになった。
特に27年5月坂本龍馬脱藩の道、高知の生家跡から愛媛県長浜までの脱藩道を沢村承之丞と二人で抜けた道を歩いたとき梼原地区を抜けるが、山深い梼原の山村から維新の魁となって若い命を明治維新の夜明けを見ることなく、散っていった人たちが沢山いたことに驚くとともに梼原の町の人たちが町を挙げて、この先駆けになった志士を讃えているかよくわかった。また墓等守っていてくださることに、鷲家の人々への感謝が如何に強いか感動した旅でもあった。
鷲家で戦死した土佐の志士は、吉村寅太郎(27歳)・那須信吾(35)・鍋島米之助(24)・森下幾馬(30)であった。そして捕縛された後、京都六角獄舎でも斬首されている。土佐の志士は木村楠馬(24歳)・中倉才次郎(25歳)・森下儀之助(34歳)・安岡斧太郎(25歳)・島村省吾(19歳)・田所謄次郎(24歳)・沢村幸吉(22歳)・土居佐之助(24歳)・安岡嘉助(29歳)など沢山の若き志士が非業のさいごを遂げている。
街道歩きより話はそれましたが、鷲家を通るには天誅組の維新の魁をそらすわけにはいかなかった。あくまで街道歩きなので、あまり詳細にしていては前に進まないので、近い将来天誅組魁の旗挙げの堺からの経路を歩き、十津川郷等の迷走を見て歩き、鷲家での壊滅までの遺跡を見て回りたいと思っています。

坂を下りきると、鷲家川に架かる市場橋に出ます。市場橋から左を見ると、大木に囲まれた朱色も艶やかな 八幡神社の門前橋や拝殿が目に映る

市場橋を渡るとすぐ突当りのT字路に出ます。右から伊勢南街道南ルートが鷲家口からきて合流します。写真は手前からの道は伊勢南街道南ルートで、今峠を下ってきたのは左からの本街道です。正面の道がこの先の伊勢南街道です。右の角が、天誅組の変での藤堂藩陣屋の油屋跡

この辺りについては天誅組の史跡も含め、伊勢南街道南ルート偏に詳細に説明していますので投稿したおりにはご参照ください

小名峠から下ってきたT字路突当りには、高さ2mの  道標
   西面「右 小川谷 河上 左 いせ くまの道」
小川谷から北上してきた
   南面「右 いせ 江戸 左 はせ 大坂 道」
木津から西進してきた
   東面「右 紀州 かうや 左 大峯山 たかはら 道」
道標の上には屋根つきの火袋を置き常夜灯が灯されている。文政十一年の銘

T字路より今来た街道を見ると、右角にも 道標
    「右 古市場宇陀榛原 左 小川四郷川上道」
    「右 高見 伊勢 左 古市場宇陀榛原道」
    「右 小川四郷川上 左 高見 伊勢 道」 

左への道を進みます、この辻付近は鷲家宿の中心地で、旅籠もあぶらや、えびす屋、日裏屋(紀州藩脇本陣)、日の出屋など主な旅館があった

左に折れてすぐ、左の八幡神社へ入る参道に日裏屋があった、紀州藩が脇本陣として陣取っていたところに、藤本鉄石(備前産48歳)と福浦元義(淡路産35歳)がもはやこれまでと覚悟を決めた二人は、討ち入り見事非業の死を遂げた

紀州藩本陣であった大庄屋の辻家の一部の遺跡土蔵

先を少し進みますと 地蔵堂 この辺りから地蔵垣内地区に入る。昭和30年2月4日午後7時鷲家小学校から出た火が付近を焼いた、鷲家大火があった地点左から新道の166号線が合流します

左の地蔵堂の先の街道   

その先で右に参道が 曹洞宗 龍泉寺 天誅組志士や紀州藩士の菩提寺元亀元年(1577)の開基で、本尊は木道如来坐像で平安時代の作。

野見観音さんが祀られている、また境内には岩松の鉢がところ狭しと並んでいる

天誅組総裁 藤本鉄石の遺詠碑
       雲をふみ岩をさくみし
            もののふの
         よろひの袖に紅葉かつちる

龍泉寺の少し先で、国道166号線を右にして左への旧道に下る

鷲家川を左(北)に沿って東へ集落内を進む

やがて鷲家川の大西橋を渡り鷲家川は北に離れていく

集落を進んだ先で旧道は分岐、左は村道で右の道を進むとすぐ龍安橋を渡る

龍安橋の先は短い区間の 庚申坂かつての木津峠への坂道の面影は道路の改修で無くなっている

民家の前の坂道(車の横)

坂の途中右手上に 山の神の祠

コンクリート道であるが旧道の坂道の面影が残る区間

舗装道に出て坂の上から振り返る

坂を上り左に折れると国道に合流

すぐ先で、国道より右に少し迂回した道が残る

緩やかな峠への坂

緩やかな坂を登っていくと右に天誅組遺跡の案内と灯篭が立つ

松本杢堂辞世の句
     君がため みまかりにきと 世の人に
          語りつぎてよ 峯の松風

松本杢堂は天誅組三総裁の一人で、両目とも見え無くなり、笠松の山中を彷徨っているうちに紀州勢の銃弾に斃れた、優れた学識者であったという。時に(三州産33歳)文久3年9月25日午後2時30分ごろ、最後まで運命を共にした村上万吉(三州産)の碑もこの先奥にあります。

伊豆尾への道を入っていくと途中に遺跡があります。時間の都合で寄れません

すぐ先に、木津峠への道が国道を左に分け並行して右の道があります

左の国道と並行しながら旧国道は次第に坂を上る

左は国道の新木津トンネル

旧国道の木津峠への道快適な道です。

左に見えるのが旧国道の木津隧道右手一段高い苔道が旧木津峠への道だが、果たして峠を越えることができるか。今は峠頂上辺りは廃道化しているようですが

峠への快適な道が残っている。左下地下はトンネルが抜けている。 

何とか道跡は残るが荒れている

今上ってきたところを振り返る下に旧国道が見えている

旧道は消えています、でも先が見えているので斜面を滑らないように下って行きます。

木津峠の頂上 付近切通になっています(標高475m) 

峠の下りですが全く旧道の痕跡はありません。滑らないように木を支えながら降ります。冬だからまだ歩けたが夏場はとても無理です。まして反対側から登るには最初からあきらめていたことでしょう。

トンネル上部から降りてきたところを振り返る、トンネルの上少し木の間が空いているところが頂上です

旧国道のトトンネル

下りてきたところすぐ右手に 祠

トンネルのすぐ先が分岐しています。かつては峠の「追分」であった、道路改修で面影はありませんが右への道は伊豆尾・荻原への道左の道を下る。

分岐から少し下る

下っていくと右に折れるところで分岐しているので手前右へ鋭角に道を下ります

更に100mほど下ったところで、分岐を左に鋭角にUターンします表示がないので注意真直ぐ下らないこと

Uターンした先の下り道

坂の途中左に お地蔵さん

民家の先で左にカーブしながら下る

やがて国道に出る右角にシェル石油国道に合流して左に進む

国道を100mほど進んだ先で、左の村道に入り暫く集落を進む

左の旧国道に合流する手前当たり、写真の民家手前辺りで、かつては右の高見川を渡り対岸の国道に出ていた、今は国道で道は整備されている(写真は振り返ったところ)

旧国道に合流したところから高見川を渡っていた付近を見る

少し上流の木津橋から渡っていた辺りを見る

木津下垣内バス停 左に が並ぶ

よくわからないがこの辺りに前述の道が再び川を渡り出てきていた。すぐ先右に高見小学校・幼稚園がある

右鋭角に振り返るこの道が川に通じていた旧道なのか

不動垣内の集落を進む

左に駐在所

すぐ先右手シェル石油・橋を渡るとT字路で右に折れる、かつての旧道は左の山裾に沿って進んでいたようです

暫くまっすぐ進みます

右手に旧酒屋の松本商店がありますその先で右にカーブ

左に 八坂神社

神社の前に 山の神と庚申 東手に 曹洞宗恵日山 宝蔵寺がある

八坂神社のすぐ先で国道を横断、緩やかに左にカーブします。左旧家の趣

すぐ右に橋を渡り

川に沿って左に折れる

川沿いの道を進みます。

200mほど先で建物で通行できなく道は消失。すぐ先に国道があるがどうすることもできず、引き返す。
かつての「松本峠」と呼ばれていたが完全に消失

国道に出て松本大橋を渡る

松本大橋から向かって左の前述の道で手前に歩いてきたが建物で通行不可。

松本大橋を渡ったすぐ右に、松本峠跡の旧道の残骸か廃道化

左に高見山荘の看板向かって右の樹木の中を旧道が通っていた高見山荘への下る道

旧道跡か、右に少し入る道の奥に 神木 距離標示松阪70㎞

中島橋を渡り国道を進んでいきます旧道は右の林の中でした。

暫く国道を歩いていると、右から道が下ってきています。ひょっとすると樹林を抜けてきた旧道跡かと思って入りますつい悪い癖で確認せずに気が済まない。

右の民家の先に旧道であっただろかすかに残っているので逆に歩きます

前述の中島橋の上あたりで谷川の川で渡れなくなっているが、やはり廃道化した旧道跡200mほど戻れたので満足

右下を見ると国道この先進めないので戻ります

戻り道左下に滑り落ちないよう細心の注意

ようやく道跡のあるところまで戻る

猪の罠か危険道跡の筋にあったのを気が付かなかった。

民家のある出口に出ました

坂を下り国道に合流します。元の所に出ました。街道を歩いていてこのように旧道を見つけると嬉しくて疲れが吹っ飛ぶ。
かつての旧道はそのまま高見川を渡っていたが、橋がないので国道を右に進む

国道を少し進み振り返ると、向かって左の山の中が旧道跡で、今少し歩いて下ってきた、川を渡り右側の旧道を手前に来ていたところ。丁度国道は出度地橋で合流している

右の高見川から杉谷川に川名が変わる、暫く川沿いに歩きます

高樋橋の手前で国道を右に分け左に下ります

左に折れた先の旧道を500mほど進む

まもなく高見山登り口の伊勢南街道

ここから最大の難所、高見山の7合目への高見越え。紀州藩の大行列は大変であっただろう

昔の登り道と様相は変わっているようで(仕方のないことです)

登り口右の  多分登山安全のおじ宗さんでないかな

高見山登り口

高見山登り口で終わります、帰りは1日数本の時間待ちで、時間まで少しバス通りを戻り時間調整します。

                         次の日はコチラ

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